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すしとあの人・1月号『豊臣秀吉』
2011.12.22
先月の織田信長についで、今月は豊臣秀吉です。この人もまた、すしに縁のある人ですね。
秀吉が朝鮮出兵で兵を進軍させていた頃、陣中見舞として贈られたのがフナずし。
送り主は近江国長浜の「惣中」、すなわち町衆の連中でした。
これに喜んだ秀吉は、持ってきた使者2人に、陣中で能楽の舞いを見せたと伝えられています。
さらに長浜へは礼状を書き、手厚い志に深い感謝の念を表しました。その書状が、現在の長浜城歴史博物館に残っています。
それにしても、驚くべきは、贈られたフナずしの数でしょう。「鮒鮓一折」と書いてあります。
「一折」…。せいぜい3尾、多くても5尾くらいでしょう。これでは少ないと感ずるのは、私だけでしょうか。
でも秀吉は、ちゃんと礼状を書いています。よっぽどうれしかったんでしょうが、偉いなぁ…。
秀吉の頃は、すしといえば発酵させるものしかありませんでした。
俗にいわれる「節分の時に巻きずしをかぶりつく『恵方巻き』の習慣は、
秀吉の家来・堀尾吉晴が、節分の前日に海苔巻きを食べて出陣し、戦いに大勝利を収めた、
という故事を元にしている」という説も、どうもマユツバのような気がします。
さて大阪府堺市では昔、4世紀末の応神天皇の頃から酢が造られていました。
その地元の名を取って「和泉酢」と呼ばれていたわけですが、秀吉の時代、製酢業者が堺から大阪へ移り、
その頃から「玉迺井」の商標が用いられるようになったわけです。
「玉迺井」。わかりますか。「タマノイ」。
あの「すしのこ」で有名なメーカー「タマノ井」は、実は非常に古くからある名前なんですね。
ちなみに、「すしのこ」メーカーの「タマノ井」は1907(明治40)年の創設です。
おまけのような話ですが、現在、すし切り包丁で有名なのは高知県です。
なぜこの地に刃物産業が根づいたかというと、今から400年ほど前。
時の領主は長宗我部元親でありました。彼が戦地から、刀鍛冶を連れ帰ったことが発端だったといいます、
戦地とは?
秀吉に招かれて参戦した「北条攻め」。今の神奈川県小田原市でありました。
全国の郷土ずし紹介・12月号『京都府京都市の蒸しずし』
2011.11.23
蒸しずしといえば関西の冬の風物詩です。
人々がからだをすぼめながら行き交う街中。
すし屋には「蒸しずし」と書いた旗がたなびいて、蒸籠から湯気が立ち上っている。
「今年もおおきに」「来年もよろしゅうに」。あぁ、今年も終わるんだなぁ…。
俳人・内藤鳴雪が10代の頃、そうですねぇ、慶応の頃でしょうか、京都の新京極あたりでこのすしを食べた、ということです。
ただ当時のすしは、おそらく『名飯部類』(享和2年刊)に出ている「あたためずし」のようなもの、
つまり、熱いご飯に酢をあてて五目ずしを作り、それを冷めないうちに食べるものだったと思われます。
このすしは、やはり俳人の小泉迂外が明治40年代に書いています。「当今では廃れて、やる者がいない」と。
今のような、五目ずしに人工的な熱を加えて暖めてやる方法は、大阪で生まれたものかもしれません。
茶碗蒸しのようですが、速く蒸し上がるように、茶碗の底に小さな穴を開けた、専用の器もありました。
これで茶を注いで、膝の上に「粗相」をした、という慌て者の話が残っています。
今日では、冷凍物が全国流通しています。
アッツアツにして食べるのだから問題はない。と思っていたら、
酢が飛んでしまう、とか、錦糸卵の色が褪せてしまう、とか、いろいろ問題点があったようです。
ひもをピッと引いたら暖かくなる最新式の保温容器。あれだったらどうなんでしょう。


すしとあの人12月号『織田信長』
2011.11.23
織田信長は…、もう説明などいらぬ戦国武将ですね。
彼が短気であったと伝えられることに関係ないとは思いますが、
彼が生きた室町後期、すしは何ヶ月も発酵させる「ホンナレ」の時代は終わっていまして、
発酵期間は短く押さえることが普通でした。
これを「ナマナレ」と言います。
織田信長は永禄11年(1568)、足利義昭将軍を擁して京都に入ります。
その際、将軍の寓所として二条御所を作りました。あ、これ、今の二条城とは違いますよ。
その頃でしょうか、一種の戯れ歌が流されました。
生成れ(なまなれ)の すしにも似たる 近江衆
石を重しと 持たぬ日はなし
信長の命で、皇居造営のために重い石を運んでいる近江衆たちを見て、
人々はナマナレのすしを思い浮かべているのでした。
信長は本能寺の変で亡くなります。その首謀者は明智光秀。
では、なぜ家来の光秀が信長を討ったかというと、
天正12年(1582)に行われた徳川家康への饗応の席で、光秀が接待役を仰せつかった時、
膳の中に「臭い魚」があるのを信長に知られたから、という説があります。
「わしの大事な接待の時に、こんな腐った魚を出しおって! 馬鹿者ぉぉぉ!!!」とブチ切れた信長。
公衆の面前で、光秀は殴られるは蹴られるは…。
その光秀の恨みが本能寺につながったのでは、というのですが、さて…。
この話は江戸時代に書かれたものに載っています。
「臭い魚」が「フナずし」と明記されるのは、さらに時代が下ります。
だいたい、すしといえば発酵食品だった信長の時代。すしを前にして「臭い」などという感覚など持ちません。
むしろ信長は、すしの愛好者だったかもしれません。
なぜなら、彼は御所のお湯殿(天皇の側近)に宛てて、「すし」を献上しているのです。
元亀3年(1572)4月17日といいますから、本拠地は岐阜。
信長は岐阜名物だったアユずしでも贈ったのでしょう。








