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日比野日誌

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 先月の織田信長についで、今月は豊臣秀吉です。この人もまた、すしに縁のある人ですね。

 秀吉が朝鮮出兵で兵を進軍させていた頃、陣中見舞として贈られたのがフナずし。
送り主は近江国長浜の「惣中」、すなわち町衆の連中でした。

これに喜んだ秀吉は、持ってきた使者2人に、陣中で能楽の舞いを見せたと伝えられています。

 さらに長浜へは礼状を書き、手厚い志に深い感謝の念を表しました。その書状が、現在の長浜城歴史博物館に残っています。 

 それにしても、驚くべきは、贈られたフナずしの数でしょう。「鮒鮓一折」と書いてあります。

 「一折」…。せいぜい3尾、多くても5尾くらいでしょう。これでは少ないと感ずるのは、私だけでしょうか。

 でも秀吉は、ちゃんと礼状を書いています。よっぽどうれしかったんでしょうが、偉いなぁ…。

 秀吉の頃は、すしといえば発酵させるものしかありませんでした。

 俗にいわれる「節分の時に巻きずしをかぶりつく『恵方巻き』の習慣は、
秀吉の家来・堀尾吉晴が、節分の前日に海苔巻きを食べて出陣し、戦いに大勝利を収めた、
という故事を元にしている」という説も、どうもマユツバのような気がします。

  さて大阪府堺市では昔、4世紀末の応神天皇の頃から酢が造られていました。

その地元の名を取って「和泉酢」と呼ばれていたわけですが、秀吉の時代、製酢業者が堺から大阪へ移り、
その頃から「玉迺井」の商標が用いられるようになったわけです。

 「玉迺井」。わかりますか。「タマノイ」。

あの「すしのこ」で有名なメーカー「タマノ井」は、実は非常に古くからある名前なんですね。
ちなみに、「すしのこ」メーカーの「タマノ井」は1907(明治40)年の創設です。

  おまけのような話ですが、現在、すし切り包丁で有名なのは高知県です。

 なぜこの地に刃物産業が根づいたかというと、今から400年ほど前。
時の領主は長宗我部元親でありました。彼が戦地から、刀鍛冶を連れ帰ったことが発端だったといいます、

 戦地とは?

 秀吉に招かれて参戦した「北条攻め」。今の神奈川県小田原市でありました。

 蒸しずしといえば関西の冬の風物詩です。
人々がからだをすぼめながら行き交う街中。
すし屋には「蒸しずし」と書いた旗がたなびいて、蒸籠から湯気が立ち上っている。
「今年もおおきに」「来年もよろしゅうに」。あぁ、今年も終わるんだなぁ…。

 俳人・内藤鳴雪が10代の頃、そうですねぇ、慶応の頃でしょうか、京都の新京極あたりでこのすしを食べた、ということです。
ただ当時のすしは、おそらく『名飯部類』(享和2年刊)に出ている「あたためずし」のようなもの、
つまり、熱いご飯に酢をあてて五目ずしを作り、それを冷めないうちに食べるものだったと思われます。
このすしは、やはり俳人の小泉迂外が明治40年代に書いています。「当今では廃れて、やる者がいない」と。

 今のような、五目ずしに人工的な熱を加えて暖めてやる方法は、大阪で生まれたものかもしれません。
茶碗蒸しのようですが、速く蒸し上がるように、茶碗の底に小さな穴を開けた、専用の器もありました。
これで茶を注いで、膝の上に「粗相」をした、という慌て者の話が残っています。

 今日では、冷凍物が全国流通しています。
アッツアツにして食べるのだから問題はない。と思っていたら、
酢が飛んでしまう、とか、錦糸卵の色が褪せてしまう、とか、いろいろ問題点があったようです。

 ひもをピッと引いたら暖かくなる最新式の保温容器。あれだったらどうなんでしょう。

 蒸し寿司1蒸し寿司2

織田信長は…、もう説明などいらぬ戦国武将ですね。

 彼が短気であったと伝えられることに関係ないとは思いますが、
彼が生きた室町後期、すしは何ヶ月も発酵させる「ホンナレ」の時代は終わっていまして、
発酵期間は短く押さえることが普通でした。
これを「ナマナレ」と言います。 

 織田信長は永禄11年(1568)、足利義昭将軍を擁して京都に入ります。
その際、将軍の寓所として二条御所を作りました。あ、これ、今の二条城とは違いますよ。

 その頃でしょうか、一種の戯れ歌が流されました。 
 生成れ(なまなれ)の すしにも似たる 近江衆

  石を重しと 持たぬ日はなし

 

 信長の命で、皇居造営のために重い石を運んでいる近江衆たちを見て、
人々はナマナレのすしを思い浮かべているのでした。 

 信長は本能寺の変で亡くなります。その首謀者は明智光秀。
では、なぜ家来の光秀が信長を討ったかというと、
天正12年(1582)に行われた徳川家康への饗応の席で、光秀が接待役を仰せつかった時、
膳の中に「臭い魚」があるのを信長に知られたから、という説があります。

 「わしの大事な接待の時に、こんな腐った魚を出しおって! 馬鹿者ぉぉぉ!!!」とブチ切れた信長。
公衆の面前で、光秀は殴られるは蹴られるは…。
その光秀の恨みが本能寺につながったのでは、というのですが、さて…。 

 この話は江戸時代に書かれたものに載っています。
「臭い魚」が「フナずし」と明記されるのは、さらに時代が下ります。
だいたい、すしといえば発酵食品だった信長の時代。すしを前にして「臭い」などという感覚など持ちません。

 むしろ信長は、すしの愛好者だったかもしれません。
なぜなら、彼は御所のお湯殿(天皇の側近)に宛てて、「すし」を献上しているのです。
元亀3年(1572)4月17日といいますから、本拠地は岐阜。

 信長は岐阜名物だったアユずしでも贈ったのでしょう。

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