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日比野日誌

すしの雑学

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 信長、秀吉と来ましたから、次は家康ですよね。
徳川家康。言うまでもなく、江戸幕府を開いた人です。 

 家康とすしのつながりで言えば、ひとつは名高い「光秀によるアユずしのもてなし」事件。
徳川家康をもてなすように織田信長から命じられたのが明智光秀…、という話は、
このコーナー、二つ前「すしとあの人・9 織田信長」を参照のこと。

 さて、江戸幕府といえば献上ずし。各地の大名たちから幕府に献上されるすしがあったのです。
その起源となるのが、徳川家康・秀忠父子でした。 

 関ヶ原での勝戦を願い、戦い、そして戦に勝ち…。
岐路途中、岐阜という町に立ち寄ります。そこで食べたのが、長良のアユずし。

 長良のアユ自体が天下の名物です。そのすしですから、もう美味! 
家康も秀忠も「うまい!」と賞翫の声をあげました。

 喜んだのは、家康たちにアユを食べさせた人。
「世の天下人が『うまい』とおっしゃった。これは、毎年、このすしを味わっていただくことにしよう」

 こうして岐阜のアユずしが、毎年、家康・秀忠に献上されることになり、その後、その役目は尾張藩の徳川家がとって代わりました。

 全国各地で、似たようなもの、同じようなことが起こりました。
おかげで10数藩が、江戸幕府にすしを送ることになりました。

 とは言え、ま、ほとんどが実話かどうか、わかりませんがね。

 で、時代は下って、家康が死に、秀忠が死に、三代将軍の頃になると、この献上ずしは、その名前だけが残ります。
いや、形だけが残ったのではなく、いっそう豪華になって残ってゆきました。

 会ったこともない家康が食べたおすしを、無難に作り上げ、運ぶ…。
その名声維持のために、制度がしっかり整えられてゆきます。

 先月の織田信長についで、今月は豊臣秀吉です。この人もまた、すしに縁のある人ですね。

 秀吉が朝鮮出兵で兵を進軍させていた頃、陣中見舞として贈られたのがフナずし。
送り主は近江国長浜の「惣中」、すなわち町衆の連中でした。

これに喜んだ秀吉は、持ってきた使者2人に、陣中で能楽の舞いを見せたと伝えられています。

 さらに長浜へは礼状を書き、手厚い志に深い感謝の念を表しました。その書状が、現在の長浜城歴史博物館に残っています。 

 それにしても、驚くべきは、贈られたフナずしの数でしょう。「鮒鮓一折」と書いてあります。

 「一折」…。せいぜい3尾、多くても5尾くらいでしょう。これでは少ないと感ずるのは、私だけでしょうか。

 でも秀吉は、ちゃんと礼状を書いています。よっぽどうれしかったんでしょうが、偉いなぁ…。

 秀吉の頃は、すしといえば発酵させるものしかありませんでした。

 俗にいわれる「節分の時に巻きずしをかぶりつく『恵方巻き』の習慣は、
秀吉の家来・堀尾吉晴が、節分の前日に海苔巻きを食べて出陣し、戦いに大勝利を収めた、
という故事を元にしている」という説も、どうもマユツバのような気がします。

  さて大阪府堺市では昔、4世紀末の応神天皇の頃から酢が造られていました。

その地元の名を取って「和泉酢」と呼ばれていたわけですが、秀吉の時代、製酢業者が堺から大阪へ移り、
その頃から「玉迺井」の商標が用いられるようになったわけです。

 「玉迺井」。わかりますか。「タマノイ」。

あの「すしのこ」で有名なメーカー「タマノ井」は、実は非常に古くからある名前なんですね。
ちなみに、「すしのこ」メーカーの「タマノ井」は1907(明治40)年の創設です。

  おまけのような話ですが、現在、すし切り包丁で有名なのは高知県です。

 なぜこの地に刃物産業が根づいたかというと、今から400年ほど前。
時の領主は長宗我部元親でありました。彼が戦地から、刀鍛冶を連れ帰ったことが発端だったといいます、

 戦地とは?

 秀吉に招かれて参戦した「北条攻め」。今の神奈川県小田原市でありました。

織田信長は…、もう説明などいらぬ戦国武将ですね。

 彼が短気であったと伝えられることに関係ないとは思いますが、
彼が生きた室町後期、すしは何ヶ月も発酵させる「ホンナレ」の時代は終わっていまして、
発酵期間は短く押さえることが普通でした。
これを「ナマナレ」と言います。 

 織田信長は永禄11年(1568)、足利義昭将軍を擁して京都に入ります。
その際、将軍の寓所として二条御所を作りました。あ、これ、今の二条城とは違いますよ。

 その頃でしょうか、一種の戯れ歌が流されました。 
 生成れ(なまなれ)の すしにも似たる 近江衆

  石を重しと 持たぬ日はなし

 

 信長の命で、皇居造営のために重い石を運んでいる近江衆たちを見て、
人々はナマナレのすしを思い浮かべているのでした。 

 信長は本能寺の変で亡くなります。その首謀者は明智光秀。
では、なぜ家来の光秀が信長を討ったかというと、
天正12年(1582)に行われた徳川家康への饗応の席で、光秀が接待役を仰せつかった時、
膳の中に「臭い魚」があるのを信長に知られたから、という説があります。

 「わしの大事な接待の時に、こんな腐った魚を出しおって! 馬鹿者ぉぉぉ!!!」とブチ切れた信長。
公衆の面前で、光秀は殴られるは蹴られるは…。
その光秀の恨みが本能寺につながったのでは、というのですが、さて…。 

 この話は江戸時代に書かれたものに載っています。
「臭い魚」が「フナずし」と明記されるのは、さらに時代が下ります。
だいたい、すしといえば発酵食品だった信長の時代。すしを前にして「臭い」などという感覚など持ちません。

 むしろ信長は、すしの愛好者だったかもしれません。
なぜなら、彼は御所のお湯殿(天皇の側近)に宛てて、「すし」を献上しているのです。
元亀3年(1572)4月17日といいますから、本拠地は岐阜。

 信長は岐阜名物だったアユずしでも贈ったのでしょう。

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