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日比野日誌

すしの歴史・文化

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さて、戦後です。この頃は食糧事情が悪かった…。
耕地となる国土が焼け野原で、加えて食べる人は、
外地から引き揚げた人の分だけ増える…。
戦時中より戦後の方が、より悪化した食料難の時代でした。

これではいけないと、政府は占領軍に、
給食などの援助を要請しました。
しかし要請しつつ、かたや、飲食店で米が売っているのはまずい。
米があり余ってる、とう批判も受けかねませんからね。

そこで出された「飲食業緊急措置令」。
「飲食業を商ってる人は、緊急措置です、とりあえず今は営業をやめなさい」
といった内容です。
つまりは、和食店も洋食屋も、高級料理屋も定食屋も、
とにかくみ〜んなが営業ができなくなってしまいました。昭和22年のことでした。

ところがすし屋だけは、商売ができたのです。これについては次回に。

時代は昭和になりまして、すしもゆっくりとした成熟期に入ってきます。
握りずしは、時代の進歩とともに握る材料が豊富になりますし、
冷蔵庫の出現で、いわゆる「下仕事」をしていない、
ナマの魚が握られるようになってくるのです。
そのほかのすしも、使う具材が洗練されて、ますますおいしくなってゆきました。

さぁ、これからもっとすしの味を鍛練するぞ、って時に、世の中は戦争へ。
はじめは勢いづいていた日本ですが、
そのうち、次第に暗雲がたれ込めてゆきます。

こうなると、材料を洗練して腕を上げる、どころか、充分な材料も入ってこない。
挙げ句には、毎日の食べるものさえ、手に入らなくなります。
すしは、もちろんぜいたく品として、作ることも食べることもできないものでした。

そんな時代の、婦人雑誌の付録です。
米の代用にオカラを使った「オカラずし」が出ています。
中身はよくわかりませんが、ここまでして、すしが食べたかったんでしょう。

*その54*

2010.09.05

大正から昭和初期にかけてでしょうか、すし屋の外観が様変わりしてきます。

それまでは「料理屋型」のすし屋と「屋台型」のすし屋と、まったく違った店でした。
それで商売がうまくいっていたのです。
けれども、想像以上に繁盛してしまったのが屋台のすし。
人はどんどん入っていきました。

こうなると「料理屋型」も、今までどおりにはいきません。
なんとか「屋台型」のすし屋に負けないようにしなければ…。

こうして考え出されたのが、料理屋の軒先に屋台を据えつけること、でした。
こうすれば、中の調理場にいる「料理屋型」の職人でも、
道行く人を相手に商売をすることができますね。

さらに「進化」した店舗では、屋台を店の中に引き入れてしまいました。
料理屋の中に屋台がある…。つまり、「カウンター」ができ始めたのです。

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