日比野日誌
全国の郷土ずし紹介
林芙美子の出世作『放浪記』。
芙美子は、生まれは下関で、明治37年5月5日生まれ、などと書いていましたが、誕生は門司市(現・北九州市門司区)と発表されました。ただし実父が認知しなかったので、出生届は母の実家の鹿児島に明治36年12月31日誕生として翌1月に出されています。「林」というのは母方の姓なんですね。
小学校は長崎、佐世保、下関と移り変わり、一応は下関で落ち着きはしますが、それもつかの間。養父の職業が倒産し、いったんは本籍地・鹿児島に預けられます。が、旅商いをしていた養父らについて山陰各地を点々とし、最後に広島県尾道市の小学校を卒業します。大正6年のことでした。
その後は尾道で女学校生活を楽しみます。彼女の文才がすくすくと育ちます。そして卒業後は上京。好きな人がいたんですね。でも、その恋はあっけなく終わります。彼女は親の分まで働きました。才能ある文学の世界だけではなく、事務員から女工、果ては下足番までやってのけますが、そこに起きたのが関東大震災。また尾道にもどります…。
まぁ、なんて落ち着かない人生、と思われるかもしれませんが、まさに芙美子の身は「放浪」の身。そして、破談、震災など身の回りのことを日記にしたため始めました。これが『放浪記』の原型になっています。
昭和3〜4年、「女人芸術」に「放浪記」を連載。昭和5年には『放浪記』が出版されました。これが売れた、売れた。芙美子は人気作家としての地位を築きました。
「林さん、書留ですよっ!」 (中略) 金二十三円也! 童話の原稿料だった。当分ひもじいめをしないでもすむ。 (中略) 晩はおいしい寿司でもたべましょう。『放浪記』より。
すしは、当時からご馳走だったんですね。
『幸福の彼方』という作品もありました。戦地から戻ってきた信一と見合いする絹子。そのお見合いの席には「すし」の盛り合わせが置いてあり、絹子は信一のために小皿にすしを取ってやるのです。
ずいぶんと具体的な表記です。ひょっとすると自分の経験を書いた、んですかね。ちなみに芙美子は「放浪記」の連載を始める2年前に、画学生と内縁の結婚をしてたんです。