日比野日誌
すしの雑学
? 知る人こそ知る、俳諧連歌の大お師匠さんです。戦国時代に活躍しました。
若い頃は足利義尚に仕えていましたが、その後、出家しました。「宗鑑」はそれからの名前なんですね。
淀川べりの山崎に住みましたから「山崎」。
山崎とは苗字ではなかったんでして、本名は「志那範重」と言いました(ただし、別説あり)。?
俳諧連歌というのは複数の人が詠む短歌でありまして、ある人が五七五を詠みますとほかの人が七七を続ける。
そうするとまた別の人が、その七七に関する五七五を詠む…、という具合に続けてゆきます。
二人でやりとりする短連歌は平安時代には完成されていましたが、もっと大規模な人数で行う長連歌は、平安末期から鎌倉期にかけて生まれてきます。
ただ、相当にややこしいルールやマナーがあったのも事実です。?
そこで正当な連歌から分かれて、より多くの人が、あまり小難しいことを言わずに楽しみましょう、と出てきたのが俳諧連歌です。
娯楽性が高かったんですね。多くの賛同者が集まりました。
俳諧連歌は江戸時代に入って大成するものですが、その基礎になるのが、この人・山崎宗鑑でありました。
?
で、おすしの話ですが、実はこの時期の俳諧史料には、すしは滅多に出てこないのです。
けれども、山崎宗鑑が撰した『犬筑波集』の中に、その珍しい例があります。?
「喰わぬ飯こそ 髭につきけれ すし桶の ふたを開ければ なまずにて」
現代語訳しますと、
「飯を食っていないのに、髭に飯がついているよ(食っていないのに濡れ衣を着せられたよ)」
「そりゃぁそうさ。ここにナマズを漬けた桶があるもの、飯粒くらいつくさ」といったところ。
「食わぬ飯が髭につく」というのは「濡れ衣を着せる」という意味なのです。
? この時代のすしはナマナレでありました。ご飯は粒状になっていますが、べたべたしていたのです。そりゃぁ、髭にもつきます。
なお、ふたを開けたらナマズのすし、ですか…。ちょっと手が出ないかも…。