日比野日誌

すしとあの人

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20代で早逝したのはこの人も同じです。26歳で散った天才作家、石川啄木。

「働けど働けど、なおわが暮らし、楽にならざり。ぢっと手を見る」

短歌集『一握の砂』の中にあるこの歌は、生まれながらに富める者は富み、貧しい生まれの者は一生貧しいままだ、という現代にもつながるようです。

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岩手の僧家に生まれ、やがて文学に目覚めて上京しますが、肺病のため、故郷に戻ります。しかし、父親が僧籍の代金を払わなかったため寺を追い出される始末で、以後は息子の啄木に一家の生計がかかってきたのです。この時、啄木は19歳でありました。

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その後、北海道へと渡り、函館、札幌を経て、小樽に落ち着きます。

小樽では最初に借家として選んだのが南部せんべい屋の2階でした。この家は現在も健在でして、「た志満(たじま)」という名前で、今はすし屋を営んでいます。店には啄木の大きな肖像写真が掲げてあり、「石川啄木 居住の地 小樽市」と宣伝しています。

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けれども、それからひと月した頃、再び引っ越します。旧宅の裏という近さでしたが、今度は平屋造りの一軒家。啄木はこの地でも文才を花開かせるのですが、この家も残っておりました。しかも、つい最近まで、すし屋をやっておりました。

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小樽といえば、今はすしの街として有名ですが、何かの縁でもあったのでしょうか。

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それから数年後、啄木は『ローマ字日記』というのを書き始めました。わずか2か月ほどの短期間ではあったのですが、みごとなローマ字でつづられており…、と続けたいのですが、この『ローマ字日記』。まぁ、下世話なエロ小説、というか、本人が告発する実話が赤裸々に記してあります。「ぢっと手を見る」哀れな青年のイメージはどこにもなく、「変態」「ゲス野郎」とまで評されることも。働いた金は大半が遊郭通いにつぎこみ、「あれじゃぁ、家も傾くわな」とは、親友の言語学者・金田一京助のことばでした。

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その日記の中でのやり取りです。明治42年(1909)4月26日、啄木は金田一と浅草へ遊びに出かけ、女に頼まれて「弥助」をおごってやります。「弥助」がすしの雅名であることは前回の樋口一葉の項でも述べましたが、同じ「弥助」でも、作品での登場の仕方がまったく違います。

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啄木、23歳の時でありました。

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