日比野日誌

すしとあの人

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すしとあの人 1月号 106「明智光秀」

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明智光秀といえば戦国武将。

織田信長の側近で、何といってもその最期は、主君・信長を殺した本能寺の変の首謀者だった男として有名です。

そしてこの事件の原因として光秀の怨恨説、

つまり、積もり積もった信長への恨みが爆発し、ついにそれが爆発した、という説が挙げられるのです。

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武田勝頼を破った長篠の戦いで、徳川家康が大きな手柄を挙げました。

天正12年(1582)、そのために3日間に渡り、饗応の膳が催されます。

光秀が接待役を仰せつかりましたが、その時の膳の中にフナずしがあるのを見た信長に、

「わしの大事な接待の時に、フナずしのような腐った魚を出しおって! 馬鹿者ぉぉぉ!!!」と怒られ、

公衆の面前で光秀は殴られるは蹴られるは…。

この光秀の恨みが本能寺につながったのでは?。

という話は、すでに2011年の本欄「織田信長」で紹介しています。

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今回はもう少し詳しく、この話のことを紐解いてみましょう。

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この話は『川角太閤記』による、と、多くの書物が書いています。

この本は豊臣秀吉の家臣・田中吉政の配下、川角三郎右衛門が元和年間に記したもので、

本能寺の変を発端とした秀吉の出世譚が収められています。

ゆえに「太閤記」の名がついています。

執筆当時は顧みられることはありませんでしたが、刊行された幕末になって注目されるようになりました。

関係者の聞き取りや自身の経験なども豊富で、一級史料の歴史書として、後世、多くの書籍が引用しています。

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さて、肝心のフナずしですが、

『川角太閤記』では「家康一行に出す料理を調理していた現場に腐った魚が置いてあったことに信長が激怒。

即刻、光秀を饗応役から解任し、光秀は面目を失った」とありまして、どこにもフナずしとは書いてないのです。

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いや、家康の饗応膳のメニューの中に「鮒鮨」の文字がありますから、

「腐った魚」とフナずしは関係がなかったということになりましょう。

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ということで、これは『川角太閤記』の記事を読んだ人が、

「フナずし=腐った魚」と誤解したことを表しています。

本来、すしというのは何ヶ月もの間、熟成させるもの。

それが酢を使ったすしに変わるのが江戸中期で、幕末の頃にはフナずしのような発酵させたすしは忘れ去られてしまいます。

そのころの人が冒した間違いだったのでしょう。

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光秀の本心は、謎のままです。

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