日比野日誌

すしとあの人

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読めますかぁ、この人の名前。

「まなせ、げんさく」と読みます。

安土桃山期から江戸期にかけての、医者です。

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幼少の頃、両親と死に別れ、母方のおじさんに育てられます。

そのおじさんというのが曲直瀬道三。

日本医学中興の祖として「医聖」と称されるほどの名医でありました。

その孫娘と一緒になり、自身も「二代目、道三」として、名を挙げます。

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天正11年(1583)、卒中で倒れた正親町天皇を救いました。

このころから玄朔は、天皇家のお抱え医者となります。

その評判を聞きつけた豊臣秀吉はすぐさま彼を名指しで指名し、召しかかえます。

天正15年(1587)、九州平定の最中の中、毛利輝元が病に伏しますと、

さっそく玄朔が呼ばれ、快癒させてしまいます。

文禄元年(1952)には悪名高い、あの朝鮮出兵が行われますが、

この時も毛利輝元が再び病に倒れ、治療のために、朝鮮へ渡って行きました。

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翌年からは豊臣秀吉の甥、秀次の病気治療にあたりますが、

運悪く、彼は秀吉との仲が悪く、秀次は切腹。

玄朔もまた常陸(現・茨城県)に流されますが、やがて赦免。

晩年には、徳川秀忠の検診などもつとめました。

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このように玄朔は、医者といっても名家も名家。

名医として、権力の中枢にいた人であったのです。

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その治療記録の一冊が『医学天正記』。

実際に玄朔が執筆したらしいのですが、編集は死後50年ほど経ったころ。

お弟子たちが変したものでしょうが、よくまとまっています。

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その中、乾の下巻。

堀伊賀守(かつての佐和山城主・堀秀政の弟、利重か?)のフナずしの一件が出ています。

いわく、フナずしの骨が、のどに引っかかったのだそう。

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従来の作り方(すなわちホンナレ)をしていては、フナずしに骨などがあろうはずはなく、

つまり堀が食べたのは、新しいタイプのフナずしであった、と考えざるを得ません。

すなわちここに、世はナマナレの時代がやってきた、と考えられるのであります。

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医者の、何気ないひと言でも、すしの発達史には、大きな記録になるものですね。

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