日比野日誌
すしとあの人
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前回に引き続いてのお話です。
前回は森の石松が親分・清水次郎長の代参で四国のこんぴらさんに行った、その帰り道のこと。
千石船の中で客としゃべっているうちに自分のことが話題に出、すっかり気分をよくした石松は、大阪で買った押しずしを振舞って・・・、というお話でした。
この有名なエピソードは、もちろんフィクションです。
「石松三十石船道中記」という浪曲の演目で、作者は稀代の浪曲師、2代目・広沢虎造でした。
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2代目・広沢虎造。明治32年(1899)、東京生まれ。
根っからの浪曲好きでしたがなぜか東京では受け入れられず、関西の浪曲師に弟子入りします。
徴兵を契機に東京へ戻りますが、同時に、中京節や関東節など数々の節回しを取り入れ、やがて「虎造節」と呼ばれる独特の節回しで、戦前から戦争直後まで、一世を風靡しました。
その人気は絶大で、当時としてはめずらしく、映画にも多く出演したりもしました。
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さて、話は変わって、あるおすし屋さんの話。
場所は東京、本郷。豊田品次さんという人が「錦鮨」を開業しました。
昭和17年(1942)といいますから、まさに戦争まっさなかです。
そして昭和20年。東京空襲で店は焼けて、休業となりました。
池袋に場所を変え、バラック建てですし屋を復業するのが昭和22年(1947)。
品不足時代のすし屋の苦労譚は・・・、まぁ、本筋に関係ありませんから、今はやめておきましょう。
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その頃、豊田さんは使用人も雇っておりまして、小林重信さんもそのひとりでした。
この人、浪曲が大好きでありました。中でも広沢虎造の大ファン。
広沢虎造といえば「江戸っ子だってねぇ、すし食いねぇ」の「石松三十石船道中記」。
「じゃぁ、うちのすし屋に森の石松を祀る神社を作っちまおうじゃねぇか!」
こういうわけで、すし屋の中に「石松神社」を作ってしまいました。昭和25?26年のころでした。
愛すべき森の石松の生みの親、2代目・広沢虎造は、当時の売れっ子。
しかし豊田さんの店には、よく訪れたといいます。
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ですが、この豊田さん。昭和48年(1973)、第一線を退かれ、「錦鮨」もたたんでしまいました。
ご本人は高齢化にほど遠く、元気かくしゃくとしておられましたが、石松神社の跡形も、一緒についえさせたといいます。
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